About Nazarenes・教団紹介

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MISSION DECLARATION

宣教宣言
 
日本ナザレン教団宣教宣言「喜びをもって主に仕え」
 
教団ロゴ
 日本ナザレン教団は、喜んで宣教の働きに携わることを目指して宣教プロジェクトを推進してきました。わたしたちは、このプロジェクトの一環として、宣教宣言「喜びをもって主に仕え」を採択いたしました。この宣言をわたしたちの教団全体で共有し、主キリストの福音を世に宣べ伝える働きを進めてゆきたいと思います。
 宣教プロジェクトの最大の目標は、一人ひとりの意識改革にあります。「教団が何をしてくれるか」、「教会が何をしてくれるか」ではなく、「自分(たち)に何ができるか」を、個人として、教会として祈り求めることが、わたしたちの願いであり、このプロジェクトの目的です。 この「宣教宣言」をナザレン教会全体で共有し、「喜びをもって主に仕えよ」という呼びかけに、力強く応答していきたいと思います。

日本ナザレン教団理事会

 


 
手のひら
 わたしたちは、教会が主イエス・キリストの十字架と復活により罪あがなわれ、召されて聖なる者とされた神の民の共同体であると信じます。教会は神の国を目指して世を旅する神の民の群れであると同時に、この世に神の福音を宣べ伝え、御旨を表す使命を授けられて生きる神の民の群れです。
 わたしたちは、父なる神が福音を世にもたらすために御子を遣わされたように、御子キリストが福音を世に告げ知らせるために教会を遣わしておられることを信じます。
 わたしたちは主キリストに遣わされた者として、神の国と神の義を第一に求め、聖化の恵みに感謝し、「キリストに倣う弟子」にふさわしい生き方を心がけます。
 わたしたちは主に遣わされた者として、霊と真実をもって神を礼拝し、愛と憐れみ、和解と平和の交わりを、教会の内においても外においても作ります。
 わたしたちは主に遣わされた者として、良い時も悪い時も主の救いと恵みを証し、あらゆる機会と方法を用いて福音を宣べ伝えます。
 わたしたちはこの世の支配者、権力者の側にではなく、主キリストに倣って、弱い者、小さい者の側に立ち、平和の福音の使者となります。
 わたしたちは、この福音宣教の業にあずかる者とされたことを主に感謝し、喜びをもって主に仕えることを、ここに宣言します。
宣教宣言の趣旨

 

①
主イエス・キリストによって召された神の民

 わたしたちは、主イエス・キリストによって罪あがなわれ、神の救いにあずかるようにと教会に召され、キリストにある神の国と永遠の命の望みを抱いて、恵みと祝福の内に生きています。この救いの御業にあずかる者とされたことを喜び、感謝を捧げて生きることが、わたしたちの務めであり、わたしたちの歩む道です。
 しかし、わたしたちは自らの救いと祝福を喜び満足するだけに終わる共同体であってはなりません。パウロは教会を「召されて聖なる者となった」人たちと定義づけています(ローマ1:7)「召されて」と訳されたギリシア語「クレートス」は「呼び出された」という意味の語です。「呼び出す」という以上、そこには神の目的と計画があるはずです。神がわたしたちを呼び出すのは、わたしたちに対する目的と計画があり、そのために身分を与え、役割を果たさせるためです。パウロは「召されて聖なる者となったローマの人々へ」と呼びかけました。ローマ人々は「聖なる者」としての召命を受けているのであり、したがって、教会はこの世のいかなる共同体とも異なる、聖なる者の共同体です。御子キリストによる救いにあずかり、神の愛と憐れみに基づく平和を作り、祈りと感謝と交わりを生き、神を賛美し栄光を神に帰すことが教会の本質です。その意味で、教会の存在自体が宣教の業に他なりません。
 

②
福音を宣べ伝える務め

 さらに教会は、主キリストが再び来られる時に神の国が成就することを待ち望み、永遠の命の望みを抱く者の共同体です。この信仰に立つわたしたちは、この良い知らせを自らの喜びとして生きると共に、世の人々に宣べ伝える福音の使者として召されています。全ての人々に福音を宣べ伝えてキリストの弟子とする務めは、宣教者・伝道者だけに委ねられていることではなく、キリスト御自身から全ての信仰者に委ねられている務めです。
 かつて、ローマのキリスト教徒は、ローマにおいて召され、ローマに遣わされました。パウロ時代のローマは、キリスト教に好意的な世界ではなく、信仰的に生きることは困難で、多くの試練と誘惑に満ちた世界でした。街中に異教の神殿が建ち並び、神社や祠が存在し、昔からの風習や儀式が人々を拘束し、それらの多くは反キリスト的でした。国家としての帝国は軍事大国であり、軍隊の頂点に立つ皇帝への崇拝が要求されました。そして、なによりもキリスト教信仰そのものが違法として禁じられていました。そのような時代の、そのような世界の中で彼らは聖なる者として召され、福音の使者としてその世界へと遣わされたのです。現代のわたしたちも同じです。わたしたちの時代、わたしたちの世界も、異教的で反キリスト的です。しかし、わたしたちはそのような今の時代、今の世界の中で主キリストに召され、果たすべき使命を委ねられて遣わされているのです。
 わたしたちは、キリストを信じる信仰を共有する神の民の共同体であることを自覚し、キリストが霊において共にいてくださると信じつつ、聖霊に励まされて、聖なる者としての生活を守り、委ねられた務めを果たすことを喜びとしていくのです。
 わたしたちは、宣教が本質において神の業であり、教会はその神の業をこの世に表すために召し出された、神の民の共同体であることを信じます。
 神は、この世において神の救いの業を証し、キリストを信じる人々を呼び集め、神を礼拝し、キリストが再び来られる時まで神の御旨を表し続ける働きを、弟子たちに委ねられました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられたとおりです(マタイ28:19)。キリストの弟子は初代の人々で終わるのではなく、キリストを信じる者は皆、世々にわたってキリストの弟子として召されてきたのであり、その自覚をもって主キリストに従い続けてきました。今日、わたしたちも主の弟子として招かれていることを忘れてはなりません。そのことを世界ナザレン教会は、「キリストに倣う弟子を作る」使命として表明しています。「キリストに倣う弟子」ということの中に、福音を生き、宣教することの全てが言い表されているからです。したがって教会は、神の恵みを受ける共同体であると同時に、神の宣教のために遣わされる共同体です。教会に集う一人ひとりは、キリストの弟子として、宣教の働きを主キリスト御自身から委ねられているのです。
 

③
主に仕えることを喜ぶ

 教会が宣教共同体であるということは、教会に集う者たちすべてが、自らの本性と
存在意義を自覚するということです。教会は、神の国を目指して世を旅する神の民の群れです。その旅の途上、わたしたちは、礼拝を捧げ、教会の交わりを喜び、御言葉に学び、神と人々に仕えることを通して、信仰が養われ、聖なる民としての恵みにあずかり、この群れに受け入れられていることを神に感謝し、神の民として生きることを喜びとするのです。その意味で、教会はこの世から分離された共同体です。この世の定住者となってこの世の内にあるものを究極の目標とするのではなく、神の国と神の義を価値あるものとして第一に求め、主に仕えることを喜びとすることが、わたしたちの生きる道です。
 

④
地の塩、世の光として生きる

 また教会は、世に神の愛と憐れみを表し、神の正義と公平を実現することを使命として世に遣わされています。わたしたちはこの世に神の国の働きを浸透させる地の塩、神の光を輝かせる世の光です。したがって、教会はこの世において生き、この世に浸透しなければなりません。その時、教会はこの世の権力、この世の支配の側に立つのではなく、弱い者、小さい者の側に立ちます。わたしたちの教会は、かつてその務めを果たすことに失敗しました。太平洋戦争の時、教会は軍事支配の側に立ち、教会としての歩みを誤り、アジア諸国の人々に多くの災いをもたらす側の手助けをしました。この事実を、わたしたちは「第二次大戦下における日本ナザレン教団の責任についての告白」で認め、悔い改めと謝罪を表明しました。この告白を基として、わたしたちは、アジア諸国の教会との交わりを回復して今日に至っていることを思い起こします。わたしたちは、これからも戦争責任告白において表明した和解の務めを果たし、主キリストの平和を世に表す宣教の働きを進め、弱い者、小さな者へのキリストのまなざしを忘れないことを表明します。
 

⑤
宣教の働きを進める決意

 神は、宣教の業を教会に委ねてくださいました。そのためには、教会が継続して世に存在しなければなりません。わたしたちが教会を形成し、世の終わりまで存続していくことは、教会が宣教の働きを担うために不可欠です。わたしたちが教会の使命と責任を果たすことを願い、祈り求めるならば、その働きを担うために必要な守りと導き、恵みと祝福を神が備えてくださることでしょう。
 わたしたちナザレン教会は、喜びをもって主キリストに仕え、宣教の働きを進める決意を新たにしましょう。わたしたちは伝道の困難さ、進展の乏しさに失望落胆することをせず、各個人、各教会、教団がそれぞれ自分たちにできる働きを祈り求め、喜びと感謝をもって実行していきます。それは、教会の成長と数的増加といった自己目的のためではなく、ナザレン教会が神の宣教を担い、すべての民をキリストの弟子となし、福音を地の果てにまで宣べ伝える使命を果たすことが、神からわたしたちに与えられた宣教命令だと信じるからです。