ふくいん(2月号) 
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 ふくいん 2月号の記事から
ここでは 月刊誌 「ふくいん」から 記事を抜粋、紹介します。
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 今月のふくいんメッセージ (2015/2)

 試練を耐え忍ぶ者は幸いである


旭川教会(牧師) 後藤 英夫

 先日、樹液さえも凍てつくような、マイナス20度を超える厳寒の朝。窓の外にある、楓の芽が大きく膨らんでいるのを見、もう30年以上も見慣れた風景なのに、こんな厳しい寒さの中にある命の躍動に、あらためて驚きを感じました。自然の中に納められている祝福と恵みなのですね。でももうすぐ来る春の、新緑の葉を出す備えなのです。この芽は、どんなに厳しく、寒く感じられていても、中心部は赤みをおび、今にもはち切れんばかりに膨らんでいました。その時、聖書の言葉が頭をよぎりました。「試練を耐え忍ぶ者は幸いである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者達に約束されたいのちの冠を受けるであろう」ヤコブの手紙1章12節。この言葉の中にあるメッセージが浮かんだのです。「本当の幸い」とは、悲しい事つらい事が無い事ではなく、それを忍びとおす恵みを知っているという事なのでしょう。一年に四季があるように人生にも様々な季節があり、よろこびの時もあれば、耐えがたい苦しみの時も備えられているのです。そして私たちには苦しみが、不条理に自分に臨んでいると思えるのです。しかし苦しみは最もふさわしい時に、ふさわしいかたちで人に臨んでいると言うことなのです。あなただけに、しかも因果として、臨んでいるのでは無いのです。冬を乗り越える自然のように、冬を通過しなければ開花しない花もあるのです。けれどもその苦しみが、越えがたいものと感じるのは、苦しみの原因を探し出して、責めと後悔の思いで、自分を呪い、人を呪う思いが心を満たすからなのです。後悔は確かに反省につながる事もあるかもしれませんが、苦しみからは解放してくれません。失敗した自分を責めてもそこには回復どころか、自分の存在を否定したくなる自己喪失の絶望が待っているだけなのです。悲しみや苦しみは、決して呪いでも、天罰でもないのです。なぜなら天地を造り、人を創造された神様は、造ったものに対して、愛と祝福をもって扱っておられる事を聖書は記しています。罰では無く、その苦しみの中に恵みを注ぎ、苦しみを通過したものだけに次の季節を与えて下さるのです。むしろ誰もが通る通過点であり、そこを通して次の季節を迎える準備の時でもあるからです。それがどれほど苦しく感じていても、そこを通過すると、必ず祝福の季節がやってくるからです。一日の中で最も暗く、寒い時は、夜明け直前なのです。苦しみがのしかかって来て、耐え難い思いが宿る時、それはもう目の前に春が来ている証拠なのです。苦しみは人生の春の足音でもあるからです。 
 (以上)


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